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62 吐気・嘔吐に悩まされる相談員を救え【事件編】

~職場での心の健康を保てていますか?~

六甲山全山縦走大会のために、ホームズ君は毎朝、五峰山光明寺へ登ってトレーニングをしている。診療所から往復で約5kmの山道である。

シャワーを浴びて心機一転、リフレッシュして仕事が始まる。ホームズ君にとって、六甲山全山縦走大会は生活の中心なのだ。従って住まいも奥深い山中にある。これも日々のトレーニングのためである。

居宅の書斎兼寝室に上がる階段の踊り場は、ホームズ君にとって特別な場所になっている。深夜その踊り場の窓から空を眺めると、北斗七星が輝いて見えたりする。夜中に餌を求め、イノシシの親子が列を作って移動しているのを見かけることもある。

初夏、名も知らない野鳥たちが樹々の枝を渡りながら、若葉の間の何かをつついて食べていたりする。つまり、四季折々の自然観察に、うってつけの場所なのである。

ある夏の日の、昼下がりのことであった。踊り場の窓の外へ何気なく目をやると、石垣の上を黄色っぽい物体が横切った。何だろうと目をこらして見ていると、雑草の間から再び、その黄色い動物が頭を出した。

相手が石垣の上から、じっとしたまま下を見下ろしているので、今度はゆっくり観察することができた。

それは、黄色というより金色に近い毛並みをしたイタチであった。イタチはそのまま数秒間、下を見下ろす姿勢をとっていたかと思うと、急に頭を下にして石垣から落ちた。まるで飛ぶように落ちて、草むらの陰に消えたのである。

「エッ!?」ホームズ君は、思わず息を飲んだ。とその直後、イタチは雑草の間から顔をのぞかせて姿を現わした。口にしっかりとトカゲをくわえて――。トカゲの真っ白い腹が光って見えた。

頭から落ちたと思ったが実は、獲物を頭上から襲ったのだ。トカゲも真上からの一撃では、逃げるにも逃げられなかったのだろう。気の毒に。

すばしこく、一瞬たりとも立ち止まらずに動き回り、そのまますぐにイタチは視界から消えた。と、今度は庭石の上に出て来た。すでに口にくわえていたトカゲはない。石の大きな凹みにたまった雨水を二口三口、美味しそうに飲んで辺りを見廻し、樹々の間に消えてしまった。

石垣の上を走る姿を見かけてから、すべてで2~3分間の出来事だった。

夜行性のはずのイタチが、真昼間に狩猟をしているのにまず驚いたが、それ以上に小動物の生きる様子を見て、不思議な敬虔な気持ちを味わったものである。

それ以来、山道の散歩の時、目の前を横切る青虫や尺取虫が目に入っても、枯れ枝ですくって藪に放ってやることはしなくなった。アリの群れに襲われて巣穴に引っ張り込まれたとしても、舞い降りて来た野鳥についばまれたとしても、それは自然界の摂理なのだから、と思うようになったのである。

さて、今回は職場の軋轢(あつれき)にまつわるお話である。最近、特に職場での人間関係や処遇の問題での相談が多い。仕事の内容が自分に合わない、仕事量が限界を越えている、能力以上の事を求められている等々。問題は多岐にわたるが、毎日の仕事の事だけに深刻さは格別だ。

Wさん(49才・女性)のケースを紹介して、読者の皆さんに参考にして頂ければと思う。

Wさんは、ある施設の相談員として働いている。そもそも初めて担当する仕事だということもあり、内容に慣れるだけでも一杯一杯の状況だったと話してくれた。

相談員の仕事の中で一番骨が折れるのが、入所して頂く利用者さんの決定だった。上司や施設の経営者からは、介護度の重い人を優先して入所させるように言われていて、Wさんも利用者さんの家族の人たちが背負う介護負担を考えても、その通りだと思っていた。  

日々、色々な問題を抱えて困っている多くの家族の相談に乗っていると、言葉のやりとりの中で感じる相手の反応そのものからも、自分の仕事の大切さを実感できた。家族の希望をどれほど実現できるのか、そうした限界は一方で感じてはいたが、社会の中で期待されているという一種の使命感も感じられた。やり甲斐のある仕事だと思っていたのである。

ところが、思いがけない所から思いがけないクレームが舞いこんできた。それは、施設内からのものだった。仕事を始めて一ヶ月もしないというのに、ある日担当者会議の中で、介護士さんや看護師さんに、あまり重症な人ばかり入所されると、仕事がきつくて手がまわらないと言われたのである。 

言われてみれば確かにそうだ。現場の人たちが毎日忙しく立ち働いている様子は、いつも目にしていた。「これ以上は無理です」という声に、掛け値が無いことは理解できる。

ただWさんには、経営者の理念を実行するよう言ってくる上司との間に、心を割って相談する場が用意されていなかったのだった。

あっという間に窮地に追い込まれたWさんは、毎朝、吐気と嘔吐に襲われるようになっていったのである。

Wさんのその後は、どうなったのであろうか。

[解決編へ続く]

ますむら医院 院長・増村 道雄

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