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63 吐気・嘔吐に悩まされる相談員を救え【解決編】

~職場でのうつ病発症を予防するメンタルヘルスチェック~

例年に比べて肌寒く感じられる早春の朝、Wさんは職場の同僚の勧めもあって、ホームズ診療所を訪ねて来た。

Wさんは、紺色のスーツをピシッと着こなし、キビキビとした足取りで診察室に入って来て、ゆっくりと椅子に腰をおろした。几帳面な性格が滲み出ているような身のこなしであった。

「どうされましたか、Wさん」

最初に口を開いたのはホームズ君だった。

「会社へ行こうとすると毎日吐気と嘔吐で、もう8kgも体重が減ってしまったんです。近くの胃腸科で内視鏡検査も受けたのですが、逆流性食道炎と説明されています。それで胃腸薬や精神安定剤をもらって飲んでいるのですが、眠くて眠くて…」

まるで堰を切ったようにWさんは話し始めた。職場の現状も詳しく聞くことができた。じっと話を聞いていたホームズ君は「それでは体調が悪くなるのも無理はないと思います。昨年の10月から今の部署で働き始め、ものの1ヶ月で嘔吐など体調不良の兆しが見え始めている。それなのに、今日まで5ヶ月間もよく我慢して働いていましたね」

「辛かったでしょう」

部屋の隅の椅子に腰をかけ、なりゆきを見守っていたワトソン君もいたわるように声をかけた。

それまで気丈に経過を話していたWさんは、5ヶ月の間の出来事を一度に思い出したのか、急に表情を崩し、両眼からは涙がこぼれ落ちた。あわててバッグの中を探し始めたWさんに、間髪を入れず立ち上がったワトソン君が、折り畳んだハンカチを手渡した。

一息入れて、ホームズ君がもう少し詳しく日々の様子を聞くと、吐気や嘔吐の他に、動悸、息切れ、発汗、熱感や冷感、手足のしびれなど、様々な症状に襲われて困り果てていた事実も明らかになった。その上、性格的には感情の浮き沈みが激しいところがあり、時には自分を抑え切れなくて辛い思いをすることがあると話してくれた。

「ご主人はあなたを見て、どう言っていますか」と尋ねると「幸い、よく理解してくれているので助かっています。大変なら仕事を辞めたらと言っています」という答が返って来た。

「こういった場合、ご家族の理解は大切なんですよ」とホームズ君が、うなずきながら声をかけると「良かったですね」とワトソン君も言葉を継いだ。Wさんも話し終えてホッとしたのか、少し表情が緩んだ。

心理テストの結果はうつ病圏で、いっそのこと死んでしまいたいという思いにまで至っていることが窺えた。

ホームズ君は、まず少しの間職場から離れ、心も身体もしっかりと休ませることを勧めた。一ヶ月間の休職治療のための診断書をしたため、会社へ提出するよう伝えた。その上で、作用の緩やかな精神安定剤、それに依存性の極めて少ない睡眠剤を服用するように手渡したのだった。

1週間後、ホームズ診療所に姿を現したWさんは、随分落ち着きを取り戻しているように見えた。

「外出すると疲れますが、よく眠れるようになりました」と言う表情は明るかった。体調がよくなったら復職したいという希望を伝えたWさんに、上司も「配置転換を考えている」と応じてくれているとのことだった。

3週間目には、嘔吐や手足のしびれも改善した上、復職に向けて意欲が出て来ていると話してくれた。

4週間経った。職場から、事情が変わって正職員としての復職は難しいが、パートとしてなら部署はあると連絡があった。しかしWさんは、正職員としての復職の希望を再度申し入れた。

ホームズ君は、もう一度一ヶ月間の休職延長の診断書を作成してWさんに手渡し、同時に休職中一定の要件を満たせば、給与の3分の2が支給される傷病手当金の請求の手続きも行った。

Wさんは、その後も何度か職場で話し合いを続け、都合3ヶ月の休職の後、正職員として復職することができた。負担の重かった相談員の仕事も、他の人に代わってもらうことができたのだった。

「ホームズ君。今回も無事に事件解決ということだね」

「本当に良かった。事件のポイントの一つは、休職によって体調を取り戻したWさんが、復職の意欲があることを粘り強く上司に伝え続けたことだったね。それに――」

「それに……。何だい、ホームズ君」

「職場が色々と配慮してくれて、Wさんの希望を受け容れてくれたことも大きかった」

「そうだね」

「実はねワトソン君。元来会社には、働く人たちの安全に配慮する責任があるという法律があってね、平成20年から、精神面つまりメンタルヘルスにも配慮することが義務づけられたんだよ」

「へぇー! 知らなかったよ」

「その上50人以上の職場では、今年12月からは働く人に対して定期的なメンタルヘルスチェックも義務づけられる。職場のストレスチェックと改善について、法律がどんどん変わっているんだ」

「フーン。いわば第2のWさんを職場で作らない、そのための予防策ということだね。ホームズ君」

陽射しが急に厳しくなった初夏の午後、2人の会話が続いていた。

ますむら医院 院長・増村 道雄

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