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64 不吉な胸部不快感の謎を解く【事件編】

~不整脈って治るんですか?~

ホームズ君がワシントンD.C.近郊のベセスダにあるアメリカ国立保健研究所に勤務したのは、昭和61年冬のことだった。アメリカ東部の町は、町ごとそっくり原生林の中にある感じだった。

真冬になって葉がすべて落ちてしまった落葉樹の景色はしかし、遠来の研究者にはモノトーンで寒々として見えた。

年が明けて研究室に出勤するまでの10日間ほどは、入国直後の最初の課題である自動車運転教則本の勉強をした。外国人研究者にとって、運転免許証は大切な身分証明書だったからである。

日本の交通法規との大きな違いは、交差点で赤信号でも右折できること。後で運転してみて実感したのだが、交通量のさほど多くない交差点では、信号が赤でも右折可能であれば、車の流れがすごくスムーズだった。右側通行の車社会の知恵なのかもしれない。

ところで教則本には、YIELD(イールド)という言葉がよく出てきた。聞き馴れない単語だったので辞書を引くと「道をゆずる」という意味であった。

郊外で信号のない交差点に入る時は、それぞれ一台ずつ、交互に入って出てゆく場面によく出くわした。町の中で、5つも6つもの道路が交差する場所は中心がサークルになっていて、車はグルグルとサークルを回りながら、行き先の道路に出てゆく仕組みになっている。

ここでもサークル上を走っている車に優先権があり、これからサークルに入ろうとする車は、道をゆずってしばらく待っていなければならない。

教則本には、YIELD、YIELD、そしてYIELD、という具合に、道のゆずり方が何度も何度も出てくるのだった。アメリカの車社会での運転マナーの基本は「道をゆずる」ことにあると感じたものだ。

ニュージーランド南島では、郊外の河川に架かる橋の多くは一車線だった。そこでは対向車が橋を渡りきるまで待っているのだ。のんびりとしたYIELDだと思った。

ホームズ君の滝野への通勤路に、大きな流通センターがある。そこを通る時、信号のないT字路が一ヶ所あって、停止線で一旦停車する。一台の車が目の前を横切った後「さあ、こちらの順番だ」と思っても、横切る車の一団が次々と目の前を通って行って交差点に入れない。

皆、先を急いでいるのか、順番はおかまいなしになっている。「YIELDなんだけどな」と考えながら車を走らせているのは少し辛い。

しかし、20年前のあの日は明らかに違っていたと、ホームズ君は思う。

それは、未明の巨大地震に襲われた神戸の町での出来事。交差点の信号はすべて、停電のため点灯していなかった。明るくなりかけた6時半過ぎ、交差点にさしかかろうとしている車は列をなしていた。

交通整理をする警官もいない交差点で、先を急ぐ車の列はしかし、静かに一台ずつ交互に右折し、左折し、直進していたのだった。実に整然としていた。

忘れることのできない恐怖の体験の中で、皆、歯をくいしばりながら耐え、冷静に、あの悲しい瞬間瞬間を乗り越えていたんだなと、ホームズ君は今もあの朝のことを思い出す。ある種の感慨を覚えながら…。

さて、今回登場して頂くのはWさん(56才・男性)である。頑強な筋肉質の体躯のWさんは、一見元気そうで健康そのものに見える。

Wさんが異変に気がついたのは、ある日、健康診断に訪れたA病院でのことだった。健診の一環として心電図をとっていたWさんは、ピッピッピッと鳴る心電図からのモニター音が、時々途切れることに気づいたのである。「ピッピッピッピッーピッ」と一瞬、電子音が途切れる。

とその時に、胸の中でなんとも言えない、何か違和感としか言いようのない感覚を感じたのだった。痛みもない、苦しさもない……。しかし胸の奥深くで感じるズンッという、この不思議な感覚がWさんを不安にした。

その日は、検査技師からも何もコメントはなく、内科外来の医師も、さして気にも留めていないようで何の説明もなかった。

しかしそれは、不安な毎日が始まるほんの序章だった。この日を境にしてWさんは、ズンッという不思議な違和感を、何度も何度も繰り返し自覚するようになったのである。

最初は、朝のコーヒーが多過ぎるのかと考えセーブしてみたそうである。アルコールのためかと考えて、節制してみたとも言っていた。それでも心拍が飛んでしまう妙な感覚を、止めることはできなかった。息苦しさも胸痛もなかったので、日常生活にさしたる影響はない。

しかし、不安を抱えたWさんはまず、隣の市の心臓の専門医、循環器科医院を受診したのだった。

問診の後、診察を受け心電図をとったが、短時間の検査には何の異常も見つからなかった。T循環器医院の医師は「かなり長く記録をとったのですが、見つからないですね」と、少し困った表情を見せた。

次のステップは24時間心電図の検査である。胸に心電図のリードを貼った後に、検査の説明があった。脈が飛んだと感じた時、渡された記録用紙にチェックを入れるというのである。

その日は入浴こそできないが、普段通りの生活をしていてもよいということで、Wさんは少しホッとした思いで循環器医院を後にしたのだった。

さあ、Wさんの胸の不快感の原因は何だったのだろうか。この不気味な不快感から解放される日は来るのだろうか。

[解決編に続く]

ますむら医院 院長・増村 道雄

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