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66 ホームズ君の夏休み

~緩やかな時間と富士登山~

北関東ー東北豪雨の犠牲者の方々に哀悼の意を捧げますと共に、被災者の方々にお見舞いを申し上げます。

2015年の夏は色々なことがあった。安保法案、原発再稼働、中国経済崩壊の兆し、中東・アフリカからヨーロッパへの難民移動。東京オリンピックの国立競技場と、エンブレム問題。中には歴史的な大転換点と、後になって評価される重大事件も含まれているかもしれない。

目の前を通り過ぎている諸々の事柄に、まるで何の接点も持たないままの生活があるかのように感じるのが不思議だ。

そんな中で、9月初めのインドネシア高速鉄道計画中止の件は、酷暑の後の一吹きの涼風の感がした。日本と中国が競って提案していた、ジャカルタ―バンドン間の新幹線計画が中止されたのだ。

高速化は時間短縮を生み、能率を上げ効率を良くする。そのための巨額な資金支出は、将来のための投資。巨額な投資は、さらに巨大な利益を生む――。

本当にそうだろうか。

この夏、セルバンテス作「ドン・キホーテ」を読んでいる。1605年というから、江戸時代初めにスペインで出版された作品で、前篇3巻・後篇3巻の超長編物語である。スペインの面積は日本の1・5倍あるが、南北の経度は札幌から浦和あたりまで。

ラ・マンチャ地方を中心舞台に、エストラマドゥーラやアンダルシーア地方を、やせ馬ロシナンテにまたがり、従士のサンチョをひきつれて冒険を続ける小説である。

小説の中でドン・キホーテは、10kmや20kmは普通に歩いている。時の流れは緩やかだ。東京―大阪500kmを飛行機や新幹線を使って日帰りするなどということは、ここ50年のうちにできるようになっただけで、人類の歴史の中ではまだ日が浅い。

ところで、必要とする時間すらもお金に換算し、能率と効率を追いかける……。それが果たして人類共通の目的なのだろうか。当時のスペインにあっても、もう古いと考えられていた騎士道精神を登場させて、セルバンテスは「人のあり方」を表現した。緩やかな時間の流れを背景にしながら……。

ニュージーランドの一車線の橋を、交互に使っている緩やかな生活は、時間はかかるが決して不便ではなかった。そのことを考えると、インドネシアの国民も、新幹線はあっても良いが、一方なくてもやっていけると考えているのだろう。

ニュースを紹介したTVのコメンテイターは、計画中止を「意味がわからない選択だ」「日本と中国それぞれに遠慮したのだろう」と評していたけれど、私にとっては計画中止は中止で、よく理解できる選択だと思う。

身の丈にあった生活を心がけることにしよう。時間に追われることなく。

7月18日夜、山仲間3人と静岡県富士吉田に向かった。途中スコールのような豪雨の中も走ったが、深夜1時すぎ水ヶ塚公園に到着。5時まで車中仮眠をとる。標高1450mのため、少し寒いくらいだった。

6時発のシャトルバスで富士宮ルート5合目へ。お気付きの方もあると思うが、仲間3人と日帰り富士山登山に向かったのである。

富士宮口5合目をスタートし、6合目を過ぎた所でメインルートを離れて宝永火口へ向かう。1707年の宝永大噴火でできた大きな噴火口である。火山礫や火山灰の中を歩くのだが、足が滑りやすく、なかなか前へ進まない。

宝永山山頂(2693m)で遅い朝食。麓に広がる広大な樹海と、山中湖が見える。遠く相模湾の向こうに三浦半島を眺めたが、伊豆半島は雲で見えなかった。紺碧の青空で、むき出しの腕に日射しが痛い。宝永山からは御殿場ルートを登る。

2800、2900、3000メートルと登っても、心配していた高山病の症状は出なかった。周囲は火山灰と火山岩だけ。普段登り慣れ、親しんでいる六甲山と全く様相が違う。緑がひとつもないのだ。植物が全く見られないから、蝉の声も聞こえない。鳥も見えず、鳴き声は一度も聞かなかった。

赤茶色が基調の砂礫の上を、ひたすらジグザグと登る。音もなく、色もなく、静まり返った登山道を風だけが吹きつける。霊界というのが正しいのか幽境というべきか。今まで登った山々とは全く違うとホームズ君は思った。

「日本百名山」で深田久弥は、『八面玲瓏(れいろう)という言葉は富士山から生まれた。東西南北どこから見ても、その美しい整った形は変らない。

―と記している。

11時半山頂に登頂。気温は0度近く、身体の芯まで凍えそうだった。夕方4時半、富士宮登山口まで下りた。予想していたほど登山道は混雑せず、ゆったりと登れた。

念願の富士山登頂を果たし、満ち足りた思いに浸れた一日であった。

ますむら医院 院長・増村 道雄

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