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76 衰弱しきった老婦人を救え【事件編】

~脱水症に気をつけよう~

毎朝七時頃から五峰山光明寺まで、往復約1時間のトレーニングを続けて十七~八年になる。敢えてトレーニングというのは、これすべて11月の六甲山全山縦走大会の準備だからである。

山頂の四つの寺に詣でる参詣道であり同時に、それぞれのお寺の住職さん一家の生活道路を、トレーニングに使わせて頂いているという感謝の気持ちは、いつも忘れないようにしている。

M住職さんに「檀家の方々は皆しんどいしんどいと言い、どうにかならないかとまで口にする人もいるのに、ありがとうございますと言って登ってくるのは、先生だけや」と言われたことがある。

山上のお寺への急勾配の参詣道をどうにかならないかと言っても、どうにもならないだろうと思いながら聞いていたのを覚えている。

腰の手術前は、この参詣道をダッシュで登っていた。約3分半から4分で駆け上がっていたものだ。最近は、ゆっくりと5分から6分かけて登る。その5~6分に、しかし、いろいろな発見がある。

ある日、道端に白いマンサクの花が落ちていた。次の瞬間、微妙な動きに目が留まった。

――錯覚かと思って目を凝らして見たが、確かに白い花弁ごとかすかに動くのである。じっと見ていると、なんと白い花に擬態した昆虫だったのだ。花弁のように見える白い羽根で羽ばたいて、森の方に消えていった。

名前は知らないが、小さな生命体の生きるための知恵に驚かされる。マンサクの花に埋もれて枝に止まっていたら、昆虫と気がつく者はいないに違いない。

勾配が急なコンクリート舗装の道路は、お寺の庭掃除の人たちや、洗濯物の集配に来るクリーニング店の軽自動車が行き来する。

巨大なナメクジや、殻の部分が毛むくじゃらの珍種のカタツムリ、それにヤマビル、ミミズといった生き物たちが、ゆっくりと横断している場面に遭遇することもある。

そうした時は、あたりの枯枝を箸代わりにして、そうっと挟む。交通事故に巻き込まれないよう、林の中へ放してやることにしている。

それでも、不幸にも犠牲になる生物はいる。しかし最近になって、蛙やミミズといった気の毒な生物を、コガネムシくらいの大きさの昆虫が掃除してくれていることに気がついた。遺体がきれいに消滅するのだ。

昆虫といえば『昆虫の哲学(ジャン=マルク・ドルーアン著)』の書評に、作家円城塔さんがこんな文章を書いている。

「とにかく気になる存在である。小さく、そして数が多い。何を考えているのかよくわからない――」

「犬や猫ほど親しくなれる相手ではないが、木石とは異なり、植物より愛想がある――」

その通りである。「昆虫の哲学」――読んでみたい。

今回は高齢の方の脱水の話である。

Kさん(72才)が、認知症を心配した息子さんに連れられてホームズ診療所を訪ねて来たのは、ある年の暮れのことだった。

いつものようにゆっくり話を伺うと、会社を経営していたご主人が亡くなって以来、独居生活を続けているとのことだった。

5年前の夏、水分摂取の不足から熱中症となり、A病院に入院した時、認知症と診断された。軽度の認知症があったため、暑い時期の水分補給が不十分だった可能性がある、とホームズ君は推理している。

A病院で介護保険主治医意見書も作成してもらい、介護サービスの利用を始めた。しかし利用していた小規模多機能ホームが閉鎖になり、自宅で別の世帯の息子さんの支援を受けながら、独力で生活するようになった。

ところが、最近になって認知症は少しずつ進行し、食事を作ったり洗濯したりすることができなくなった。そこで、介護保険を再び利用することを目的に、介護度の見直しを希望して来られたという訳だったのである。

そうした希望を聞き、直ちに行なった認知症テストの評価は19点。軽度の認知症と診断されたが、すでに薬の治療が必要となるレベルだった。

ホームズ君は、Kさんと息子さんに治療が必要な認知症であることを説明し、薬を処方した。その一方で、介護保険主治医意見書を作って市へ郵送したのである。

二人とも、少し安堵の表情を浮かべて診療所を後にしたのだったが……。

そんなことがあった数ヶ月後、再びKさんは息子さんに連れられて診療所を訪ねて来た。しかし、Kさんの様子を一目見て、ホームズ君は驚いてしまった。身体はやせ細り、表情もエネルギーが失せてしまったようにしわだらけだ。自力では、とても立っていられないくらい衰弱しきっていたのである。

「脱水状態だ……」

ホームズ君は、Kさんの状況を即座にそう判断した。

しかし、なぜ? この数カ月間どうしていたんだろう? 次々と疑問が湧いてきたが、とにかく話を伺うことにしたのだった。

さあ、弱り切ったKさんを、ホームズ君はどう救い出してゆくのだろうか。

【解決編に続く】

ますむら医院 院長・増村 道雄

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