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86 ーすべて重荷を背負って苦労している者はー

~診療所の色紙に秘められた思い出~

ある文章を読んで思わず笑ってしまうとか、予期せず涙があふれてくるといったことは、読者の方々も経験されたことがあると思う。

その言葉を読んだ時、私も張り詰めていた心の緊張が突然に解け、肩の力が一挙に抜けた。大袈裟に言うと、心が広い宇宙に向かって解放された思いがしたのである。今回はそうした体験にまつわるお話である。

昭和53年。長野県の佐久総合病院の内科医だった私は、神戸大学の脳神経外科医局に入局し、脳外科医として研修を始めることになった。すべては恩師松本悟教授が、その道を開いて下さったことだった。

数年後、大学院に入学した。内科医として働いていた頃に興味を持った「脳の血管が血栓で詰まってしまった時、脳の神経細胞がどんな形で働きを失うのか」を研究する目的があったからである。研究の成果が実を結べば、脳卒中の診断や治療に応用ができ、社会に役立つのではないかという野望を抱いていたのである。

当時は大学院生といっても、四年間研究生活に没頭する訳ではなかった。もちろん医師免許も持ち、すでに何年も研修を積んでいる。研究課題が決まるまでは、大学と関連のある病院で働くのが一般的なコースだった。

私は、松本教授の取り計らいで、大阪の淀川キリスト教病院に勤務することになった。

淀川キリスト教病院はその頃、東京の聖路加病院と共に、ホスピス病棟があることで有名な病院だった。ホスピスとは、死を目前にした人の身体や心の苦しみを緩和することを目的とした療養所という意味の言葉である。

その語源は中世ヨーロッパに逆のぼり、当時の「慈善による貧しい人に対する救済施設」や「巡礼者などの旅人の休憩所」をさす言葉なのだ。

創設者である精神科の柏木哲夫先生が、ホスピス病棟で精力的に仕事をしておられたのを覚えている。

白方誠彌院長は、脳神経外科部長を兼任されており、私は白方先生の指導を受けて働いていた。毎日の外来業務や、病室での入院患者の治療、救急患者を含めた手術、といった仕事を白方先生と二人で受け持っていたのである。

夜中でも呼び出されて出勤することがあり、救急手術の後は病院の研修医室に泊ることも多かった。

家庭では、父親不在のためか長男がよく喘息発作を起した。呼吸困難になって救急車で病院に運ばれ、救命処置で命を救われたこともあった。

家族を含めて色々な試練が集中して起きた時期であった。

心理的なストレスが、時として様々な身体の症状を引き起すことは稀ではないといわれている。当時の私も原因不明の右足指のしびれと脱力感に、始終不安を感じるようになっていた。今、思い返してみると、半年後に脳神経外科学会の認定医試験が控えており、日常診療の多忙さの中で準備が思うように進まない焦りもあったのだと思う。

そんなある夜のこと。緊急手術があり、病院に泊ることになった。認定医試験のための勉強をした後、深夜、術後患者の容態を見るために、病棟へ続く長い渡り廊下を歩いていた。その時ふと、人気のない廊下の壁に色紙の入った額がかかっていることに気づいた。何気なく近づいてみると、それは聖書の一節だった。

――すべて重荷を背負って苦労している者は私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう(マタイによる福音書十一章二十八節)――

この言葉を読んだ途端、私はそれまで身体や心の中に張りつめていた何か重い物のすべてが、一挙に消えてゆく感じがした。連日のように病院に泊りこんでいたための疲れが薄らいでゆき、肩の荷が軽くなったのである。生まれて初めて感じた不思議な感覚だった。

10年ほど後の冬のことだった。ある日、久し振りに西神戸教会を訪ねた。すると島田信一牧師が、偶然にもマタイによる福音書のあの一節をテーマに話をされたのである。

それまでも何度か足を運んだことのあるその教会には、島田牧師の父上の島田伸文さんが、いつも隅の席に静かに座っておられた。淡々とした表情で、控え目にしておられた印象がある。

その日、全く偶然に、心を解放してもらえたあの一節を聞くことができた喜びのためか、私は普段言葉を交わしたことなかった父上に近づいて行き、思い切って「色紙にマタイによる福音書の一節を書いて頂けませんか」とお願いしたのだった。不躾極まりない申し出にもかかわらず、島田伸文さんは微笑んで「いいですよ」と答えて下さった。

翌年の新年。その年の最初の礼拝日に、私は家族と西神戸教会に足を運んだ。島田伸文さんに、色紙を送って頂いたことへのお礼を伝えようと考えたからだった。

しかし、いつもの席に伸文さんはおられなかった。その日の島田牧師の説教の中で、あのいつも淡々とした表情で、控え目に、静かに座っておられた伸文さんが、一週間前のクリスマスイブの夜に亡くなられたことを初めて知ったのだった。

クリスマスを祝うろうそくの灯や、オーナメントの輝きの中で、ご自宅の肘掛け椅子に座ったままの姿で息を引き取っておられたとのことだった。病気らしい病気もせず、89才だったと教えられた。

亡くなる直前までクリスマスを祝っておられた島田伸文さんに、その生涯の最後に書いて頂いた色紙は、今もホームズ診療所の玄関に掲げられている。訪ねて来られる人たちの身体や心から、その重荷を解放することを祈って。

ますむら医院 院長・増村道雄

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