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98 初老の紳士の心をかき乱す耳鳴り事件【事件編】

~落胆の底からの救出作戦~

最近、ホームズ君はできるだけ身体の力を抜いて生活しようと、考えるようになった。

それは、ホームズ君の友人で、かつての同僚医師そして芥川賞作家である南木佳士の、次のような文章を読んだからだった。

―――上州の山村で生まれ育ったので、山仕事にむかうおじいさん、おばあさんがうしろで手を組み、えっちら、おっちらと外股で急な山路を登っていた姿を鮮明に記憶している。いま、あの完璧に無駄な力の抜けた歩き方を理想として山に入っている。落ちた葉は根に還る、のだ。

(『生きのびるからだ』文藝春秋刊)

診療所の裏山を早朝歩く時も、「脱力」を心がけるようになった。扇山の直登の登山道も、一気に登らず疲れたら適当に休む。行手の急斜面の山道を眺め上げたり、後を振り向いて、遠く六甲山の山並みや淡路島の山々を見晴らしたりしている。

歩き始めて一年以上になるが、雄岡山の肩にあたる部分から、明石海峡大橋の主塔部分が2本、見えているのを初めて発見した。

えっちらおっちら力を抜いて歩くと、今まで見えなかったものが見えてくるのである。

 今回はAさん(65才・男性)が遭遇した事件のお話である。

風の冷たさが気になり始めた晩秋のある日のこと。ホームズ君がいつものようにたくさんの訪問者の色々な相談を受けている時間帯に、デスクの電話器が鳴り始めた。

受付の事務員から、薬の処方等の確認電話も多い。そんな時、ホームズ君はまず、今まで話を聞いていた相談者に、「すみません。すぐ終わりますから」と断わって受話器をとることにしている。

その時も、話を中断することを詫びて電話に出た。すると、電話器の外線通話を知らせる赤い豆ランプが点滅しているのが目に入った。

「Y診療所のD先生からです」と言う受付の声に、すぐ外線をつないでもらった。

D先生は、よく患者さんを紹介して下さる先輩開業医だ。大概の場合、ホームズ君が詳しい検査をしてみると、すでにD先生が下している診断が的確であるという結果になるのだから不思議だ。

「私の所に通院しているAさんなんですが、脳幹梗塞の後、強い耳鳴りで困っておられるのです。診察してもらえますか」

「ええ、どうぞ。いつ来られますか?」

「今日、これから行かれますので、よろしく」

「わかりました」

Aさんは、奥さんと連れ立って、すぐに現われた。

ホームズ君は、Aさんが脳幹梗塞によく見られる、特徴的な歩き方をしているのに気がついていた。それは、身体のバランスをとるという大事な脳の機能が壊れているために、左右の足の巾を広くとって歩く歩き方だ。ちょうど、走っている電車の中で揺れる床の上を歩く時の歩き方に似ている。

黒いジャンパーを着こみ、少し肥満気味のお腹を手で抱えるようにして、Aさんは応接室の椅子に腰をおろした。隣に、少し不安気な表情の奥さんが座った。

と、座るなりAさんが、大きな声で事の顛末(てんまつ)を話し始めた。

まるで、少しの時間でも惜しむかのように次々と言葉が出てくる。だんだん顔が赤らんでくるのが解るくらい、興奮を抑えられないようだ。

Aさんの言葉をかいつまむと、次のようになる。

Aさんは糖尿病を治療していたのだが、ある日のグラウンドゴルフの最中、ボールを決められた場所にしっかりと置けないことに気がついた。その時、一緒にプレーをしていた友人も、Aさんの歩く姿がどこかしら心もとなく、フラフラしていることに気づいたそうだ。友人たちの通報で救急車が呼ばれ、Aさんは直ちにC総合病院脳外科に搬送されたということだった。

総合病院では精密検査がすぐに行われ、脳幹梗塞と診断を受けたのだった。

数日の入院治療のあとも、フラつきやバランス感覚の障害が、後遺症として残ってしまった。その上、やっかいな耳鳴りがジンジンと響き始め、目が覚めている間中、止まらないようになったのである。

脳外科の主治医に、耳鳴りがいつ頃治るのか尋ねたところ、医師からは「もう治りません」といういささか冷徹な返事が返ってきた。

Aさんは、ショックに打ちひしがれた思いで、もう立ち直れないように感じたと言っていた。

折り悪しく、ちょうど自営業の製造業では、受注した品物の納期が目の前に迫っていたが、それもかなわなくなるという厳しい現実が、Aさんの心をさらに乱れさせるのだった。

焦りも手伝ってか、その後、耳鳴りの音は大きさを増すばかりで鳴り止むことがなく、Aさんはすっかり気持ちが落ちこんでしまったのだった。そんな毎日の中で、奥さんに対してまで「もう死んでしまいたい。もう何もかも駄目だ」と、血の叫びのような愚痴をぶつけるようになった。

家族も皆、Aさんの苦しむ様子をみて驚き、慌ててD先生に助けを求めたということだったのだ。

「Aさん、それは辛いだろうね」とホームズ君は声をかけると、傍のワトソン君に「心理テストをしてくれたまえ。ワトソン君」と、一言言って椅子に深々と座り直した。

「これは、大変な難事件だ。しかし、解決の道は必ずあるからね」とワトソン君はAさんの肩を抱きながら、テストのためにAさんを隣の部屋へと案内していったのだった。

さあ、この事件をホームズ君はどう解決するのだろうか。

【解決編につづく】

ますむら医院 院長・増村 道雄

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