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104 ホームズ君の野球生活

~ホームラン王・春吉(はるよし)君の思い出~

今年の日本シリーズは、福岡ソフトバンクホークスが広島東洋カープを破って優勝した。

面白いシリーズで、野球の醍醐味を楽しむことができた。

中でも、カープの機動力を完全に封じこめた捕手・甲斐キャノン(大砲)の強肩は、素晴らしかった。

かつてホークスには、城島という凄いキャッチャーがいた。

投手の方を向いて球を投げ返す姿勢のままで、一塁に弾丸牽制球を投げ、飛び出ているランナーを刺すという離れ業をやってのけていた。

甲斐は、その城島より強肩だ。カープの8回の盗塁を、甲斐、高谷の2人のキャッチャーがすべて阻止した。その甲斐がMVPに選ばれた。ホームランバッターの柳田ではなく、クローザーの森でもなく、甲斐。

この地味な功労者にMVPというのも、粋な選考だったと思う。

アメリカン・リーグの新人王、大谷の選出も嬉しいニュースだった。

アメリカの新人王は野球記者による選考だということを初めて知ったが、プロの記者らしい評価で、その公平感が爽快だった。大谷の野球は衝撃的で、超一流だ。

私も小学生時代から、山村の野球少年だった。

学校から帰ると、来る日も来る日も二人の弟を連れて、山奥の集落にある神社へひたすら通った。

そこでソフトボールをして遊んでいたのだ。

神社の境内は狭く、一、二塁間はすぐ崖が迫っていた。一塁ベースは崖から飛び出ている大きな石で、崖の上は雑木林になっていた。レフトはせいぜい30メートルしかない。

その上、ショートの守備位置にはヒョロヒョロと細い一本の木が植わっていた。

たとえ、そんな風変りな空間でも、僕らにとってはプロ野球のグラウンドと同じで、一生懸命野球を楽しんだ。

そんなソフトボール仲間の中で、一つ年上の金子春吉君がホームラン王だった。

春吉君は両親が北朝鮮からの帰還者で、家は「綿屋」さんだった。

小学校へ通う道の坂の上にあって、いつも綿を打つ機械の音がしていた。ふとんの中に入っている綿を取り出し、打ち直してふっくらとした質感に戻す仕事をしていたのだ。

ある年のシーズンの初め、春吉君に「ホームランを百本打ったら、アイスクリームを一本あげる」と約束をした。

当時、棒つきアイスキャンディーが5円。銀紙に包まれた棒つきアイスクリームが10円だった。

その年の秋、春吉君は、見事百本目のホームランを、レフトの満員の観客席ならぬ杉林に叩き込んだ。

翌日、私は診療所の会計窓口の小銭入れから10円玉をくすねた。

お小遣いなど皆無の時代だったから、手持ちのお金は一銭もなかったのだ。

仕方なくくすねたのだから、バカボンのパパも「それでいいのだ」と言ってくれていただろう。

その10円玉で、麗わしい銀紙に包まれた棒つきアイスクリームを農協のマーケットで買い、グラウンドに行った。

春吉君に、「百号ホームランの表彰」と言ってアイスクリームを渡すと、約束をすっかり忘れていたのか、ビックリした顔をしてアイスクリームを手にとった。

保冷剤などなかった時代だから、アイスクリームはかなり溶け始めていた。

春吉君は、大事そうに銀紙を半分はずし、溶けたクリームが落ちないように上手に食べていた。

その顔は、嬉しそうな満面の笑顔だった。

翌年の春、私は中学校の同級生の二人の女生徒と、新潟港にいた。

故郷の家から列車で5時間、春吉くんを見送るための旅だった。

その年に、北朝鮮帰還が始まっていたのだ。

「トボリスク号」「クリリオン号」の2隻の大型客船が、北朝鮮の音楽に祝われながら新潟港から船出していった。その時初めて見た真っ白な大きな船の名前は、頭の奥まで沁みついていて、今も忘れることはない。

聴いたことがあった「アリラン」の歌の他、初めて耳にする北朝鮮の音楽が大音響で港を包んでいた。

ふいに汽笛が鳴り響き、いよいよ出航の時間が来た。

その時、「みっちゃーん」「みっちゃーん」と、私の名前を叫ぶ声が船のデッキの方から聞こえてきた。

春吉君の声だった。

同行していた私の母親が、「春吉君」と呼び返すよう、何度も私に言った。

しかし、私は春吉君の名前を呼べなかった。

後に父親が私を評して言った通りの「意気地なし」の自分がいた。

「意気地なし」の山村の中学生を置いて、船は港を出て行った。

「ホームラン王」の春吉君は、アイスクリームを食べていた満面の笑顔を私の心の底に残して、遠くの国へ旅立っていった。

春吉君たちと一緒に、日が暮れるまで遊んだソフトボールを原点に、私は中学、高校、大学と野球部で野球を続けた。

神社の境内で野球をしていた頃、映画「川上哲治物語 背番号16」を観た。

入団当初、川上は大谷と同じく投打の二刀流だった。川上に憧れた私は、大学、勤務先、地域の野球部で、いつも背番号を16にしてもらっていたものである。

エッセイを書き終え神戸の街を歩きながら、ふいに涙が頬を伝っていることに気が付いた。

春吉君も北朝鮮で、野球を続けることができたのだろうか。

今となっては、知る由もない。

ますむら医院・院長 増村 道雄

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